大隅半島芸術村
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《歴史小説の作家》三沢明郎の作品

三沢明朗の情報
7月28日、三沢明朗は東京で「桜島山が見ている」の読者のみなさまに招かれて、島津斉彬や西郷吉之助をめぐる幕末のことを話しました。
三沢明朗の話を聞く会は、これから年1回、定期的に行われることになりました。

新刊情報

桜島山が見ている

昨年12月下旬に刊行。幻冬舎。
ただ今、全国有名書店にて販売中。
南風図書館でも展示販売しています。
絵・まむねむこ

窓の外に広がる雄大な桜島山の風景を見ながら、三沢明郎はこの小説を創作した。

鹿児島市の祇園之洲は錦江湾に接しており、西郷吉之助が命を捨てようとした湾の場所も、仕事部屋の窓からすぐそこに見える。

島津斎彬が発動した近代産業の揺籃の地も歩いて行ける。

彼らの息づかいが溶け込んでいる町。・・・・・・三沢明郎はここでじっくりとこの作品を発酵させた。

桜島山が見ている/ストーリー

まだ英雄ではなかった。・・・・・・桜島山の見える町で生まれ育ち、ひたむきに生きた西郷吉之助。

黒船が来た、天下大乱の時代に、新藩主・島津斉彬の命を受けて、江戸や京都を奔走した。新しい日本を作る希望に燃えていたが、大地震が遅い、江戸の町々は倒壊し、大火事で焼きつくされた。次にコレラが大流行し、何十万人もが死んだ。葬列の中を走り回りながら、吉之助は考えた。・・・・・・人が生きることに何の意味があるのだろうかと・・・・・・。

島津斉彬が急死し、安政の大獄が始まり、幕府の追手を逃れて郷土に戻った。しかし救いの手を差し伸べるものはいなかった。

満月の夜、桜島山が見ている錦江湾に、京都の僧・月照とともに、吉之助は投身した。三十二歳だった。

桜島山が見ている/作者として

私は高校時代、どういうわけか、いつもしきりに考えました。自分何のため生きているのか、ここにこうしていることに何の意味があるのか、などと。

すいぶん深刻に考えて家に閉じこもったりしていたのではないのですが、ふと時として、友だちと離れ、一人でどこと知れす歩き回らずにおれなくなりました。

そんなとき、鹿児島市のどこからでも桜島山が見えました。その姿の勇壮さには、生きていることへの何かの答えが潜んでいるように思えました。そして町を歩くと、楠の青葉に覆われた城山の方々に大木が立ち枯れたまま、白骨のように悠然とひときわ高く、何かを語っているかのように立っていました。また歩いて行くと、街角の石垣に西南戦争の銃弾の跡が残っており、薩英戦争をしのぶ石碑があり、さらに桜島山を見ながら錦江湾のほとりを歩いていくと、吉之助が蘇生したという古い家がありました。それは月照上人とともに吉之助が命を捨てようと、夜の湾に船上から飛び込んだ事を記憶させるための場所でした。その歴史にちなむ石碑が湾岸にはまだ他にもありました。

自分は何のために生きているのか・・・・・・。そんな惑いの答えを得るのに、私には鹿児島があり、そこに吉之助という人物がいました。自分たちの年頃の頃、吉之助は何を思っていたのだろうか。どう生きようと思っていたのだろうか。

高校三年の冬、私は山陰に放置された座禅石を捜し出しました。吉之助が私ぐらいの年齢のとき、毎朝通い、座禅を組んでいたというのが、その石です。私は座禅の組み方は知らなかったが、春が来て上京するまでそこに通い、石に座りました。吉之助の思いを忍んでみたかったからです。

海音寺潮五郎という鹿児島出身の作家が、私の高校時代に、『西郷隆盛』という小説を朝日新聞に連載していました。私はそれを毎日読み、それが年行本として次々と発行されると、必す買い求めて読みました。上京後もそれは刊行され続けたので、購読をつづけました。

一方では、どういう切っ掛けだったのかは思い出さないけれど、私はロマンロラン協会に入り、月に一回、有楽町の例会場所に出かけました。アントン・チェホフにも興味を抱き、その演劇をよく見に行ったり、劇団の友の会に入ったりしました。エスペラント語を学んだのもこの頃でした。

ちょうどベトナム戦争が始まり、中国で文化革命、フランスでパリの五月革命が起きた時代の頃です。・・・・・・その頃も、私は吉之助の関係の本を読み、海音寺潮五郎の講演する鹿児島県人会に出かけたりしていました。ところが、だんだんと海音寺の西郷小説に飽きたらないものを感じるようになりました。その理由は時代の影響もあったかも知れませんが、何よりも一番大きいのは、文芸にまで昇華されていないということでした。

ただ歴史的な出来事を追いかけながら要所ごとに作者の知識による解説を織り込む作風ではなく、たとえ吉之助であろうとも、心の奥に秘めているはずの生きる悲しさ、愛の喜び、社会の軋轢に耐える辛さ、ともに傷ついている人たちへの慈しみ・・・・・・、そうした心のはるか遠くから伝わってくる波動を受け止めた小説を読みたいと思いました。

しかし海音寺がそんな小説を書いたらそれはもう海音寺の小説ではなくなってしまうわけで、もともと出来ない話です。

そこでいつか自分でそんな小説を創作してみようと思いました。それ以降も、ずっと思い続けてきました。ところが、もちろん、私にそんな才能があるわけではありません。他の小説は手がけていますが、こと西郷に関する作品は、自らにかしたハードルが高すぎ、一度も取り組むこともなく、今日に至っていました。

さて、今回、ともかくそれを創作することになったのは・・・・・・。ちょっと恥ずかしい話ですが・・・・・・。実は昨年、NHKの大河ドラマで西郷が取り上げられたことから、ちまたに西郷ブームが起き、書店には続々と西郷の本が出てきて、山積みされていました。私はそれを見て、自分なら西郷の簡単なガイドブックをすぐにでも作れる、ひとつ、これを作ってみよう、金も儲かりそうではないか、なんて・・・(笑い)。

さっそく取り組み、まず西郷の生まれ育った下加治屋町から書き始めると、あとからあとから書くべきことがあふれてきて、止まらなくなりました。次に島津斎彬となるや、これまた洪水さながらにいろんなことが押し寄せてきて、もはやガイドブックの域を越えてしまいました。

それでも書き進めると、次第に小説らしい体をなしてゆき、やがて自分も小説として創作する気になり、姿勢をあらためました。

まず吉之助。・・・・・・自分が高校生のとき、なぜ生きているのかという惑いを解く対象として、吉之助がそこにいました。まだ英雄ではなくて、名もない下級武士の家に産まれ育った少年が、貧しさに耐え、ひたむきに生きている。自分はどうしてここに存在しているのだ、これから生きていくことに何の意味があるのだ・・・・・・。そう自問しながら。

私の創作する吉之助はあのころの私の思いが投射されたものといえるでしよう。私の吉之助は歴史の駒ではなく、一人の生きた人間として描かれています。

吉之助の青春を文芸作品として昇華させるための生命は、ここから生まれるのではないか、そう思いながら創作しました。

図書新聞2019年3月9日版/植田隆

「桜島山を島津斉彬が初めて見たのは、二十六歳の初夏だった。/江戸で生まれ育った彼は、多くの人たちから、領国の城下町の真っ正面に、湾をへだてて壮大な活火山がそびえていることを、おりにふれてさまざまに、数え切れないほどに聞かされた。/空想していた桜島山と、いざ目の前に見る桜島山は、比べ得るものではなかった。真向かったとき、彼は他国のどこにもありうるものではないあまりにも威風堂々とした山姿に圧倒され、感動し、『ここが自分の領国なのだ』と強い誇りを抱いた。」

昨年のNHK大河ドラマは、『西郷どん』(原作・林真理子、脚本・中園ミホ)だった。素直にいえばなかなか刺激的に作られていたと思った。わたしにとって、江藤淳の『西郷残影』が、西郷隆盛への誘いの書であった。また、“征韓論”という皮肉なロジックで西郷の理念を断じて、西南戦争を矮小化する史観にも与したくないと思っていた。大河ドラマは、そういう意味でいえば、わたしには、背中を押してくれた物語だった。

そして、いま、本書を読み通して、幕府の守旧派によって追い詰められ、西郷が清水寺住職、月照とともに入手する場面で終えていることに、作者の強い思いが濃密に込められていると思った。

幕末期の尊王攘夷という思想・理念(尊王と攘夷を一括りに考えること自体に、実は論ンりの破綻があるといいたい)というものを仔細に分析し論述することと、本書について評することは、いささか位相がずれるかもしれないのでひと言だけ述べてみれば、わたしは明治維新という場合の“維新”には疑念を抱いてきたといっていい。なぜなら、本当の意味での変革ではなかったと捉えていたからだ。だからこそ、斉彬の、西郷の、それぞれの真摯で孤独な苦闘に共感したくなるのだ。「ただの下級武士に過ぎなかった」西郷が、斉彬に重用されたのは、懸命に何度も建白書を出し、その内容が認められたからだ。「武士と百姓の関係は、一体何だろう」と率直な疑問から、薩摩藩における農村の、つまり農民の窮状を訴え続けたからに他ならない。

斉彬の後ろ盾であった、江戸幕府老中首座、阿部正弘が亡くなると、守旧派の井伊直弼たちが権勢を拡大させて、斉彬たち“一橋派”は守勢になっていく。本書における西郷吉之助に、作者が次のように吐露させているのが、深い印象を与えてくれる。

「鹿児島に戻ったら、自分も人に隠れ、月照のように森に住み、風に吹かれる雲を見上げ、自分を生かしている『何か』に、ひっそりと溶け込みながら過ごしたいと思った。」

斉彬死後、西郷の行く立てはますます混沌としていく。西郷は、大久保一蔵(後の利通)のように上昇志向や権力欲があるわけではない。ただひたすら藩主、斉彬の志に共感、傾倒して疾走してきたのだ。殉死しようとした西郷に、月照は語る。

「斉彬様が亡くなられても、あなたは斉彬様と意思はつながっているのですよ。あなたがそう信じるとき、斉彬様の意思はこの世にあり続けるのです。」

本書の最後の一行はこうだ。

「桜島山は、何事もなく、そこにあり続けた。」

桜島山が見ている限り、西郷隆盛と島津斉彬の強く繋がった幕末期の思念は、時空を超えて、現在でも光彩を放っているということを、作者は想いを込めて述べているように、わたしには思われる。


作品の紹介(2)
「逃げ水の七郎太」


2017年に刊行。幻冬舎。
南風図書館に館内閲覧用のみ展示。
絵・朝倉悠三

馬が走る、銃声が轟く。・・・・・・小説が疾走する。

真夏の大隅半島。見渡す限りの草原を風が怒濤のように渡り、陽炎が揺れ、光り輝く景色が薄青く霞む。

突然、草原から馬に乗った侍が現れ、ぐんぐん近づいて来る。「逃け水の七郎太だ!」・・・・・・その後から大勢の百姓たちが死に物狂いで走って来る。遠くで轟く銃声と馬の群れのひづめの音。追手が迫っている。

1980年代だった。

三沢明郎は東串良町の郷土誌を見た。・・・・・・江戸時代の中期、大隅半島から隣の飫肥領に2500人の百姓が逃 げた、と記されていた。

薩摩藩の苛酷な収奪に耐え切れず、百姓たちは逃散したのだろう。旧・飫肥領を訪ねて調べると、それだけではなかったことが分かった。逃散したのは一向宗の信者たちだったという。大隅半島を歩き回ると、あちこちに 隠れ念仏の洞穴が残っていた。

三沢明郎は少年時代に観た黒沢明の映画『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』を忘れてはいなかった。飫肥領に逃げた百姓たちのために、命をかけた侍がいたのではないかと空想した。

ヘミングウェーの『誰がために鐘は鳴る』のラストシーンを思い出した。そのために侍とともに戦う少女を登場させた。

大隅半島の広大な台地を車で走ると、夏にはぼうぼうと陽炎が立ちのぼる。この陽炎を突っ切って逃散劇は繰り広げられたのだろう。

三沢明郎は小説のタイトルを初め『陽炎の七郎太』としたが、後に『逃げ水の七郎太』と改めた。

2011年、南風図書館から『逃げ水の七郎太』が刊行された。

三沢明郎は本にしたそれを読み返した。するといろいろと不満な点が見えた。とりわけ、七郎太とは何者なのか、それがはっきりしていなかった。

あらためて書き直した。

2017年、幻冬舎より再発行。

・・・・・・・・・・現在は在庫なし。

逃げ水の七郎太 / ストーリー

江戸時代の中期、大隅半島から国境を突き破り、隣国・飫肥領へ百姓たちが逃げ込んだ。それはとめどなく繰り返され、あるときには何十人、何百人が一斉に走った。百姓に逃げられると田畑が荒れる。年貢をとれず、藩財政は痛手をこうむる。何としてもそれを防がねはならない。藩も必死で、城下から獰猛な荒くれ武士どもを送り込んだ。逃ける百姓たちは切り殺され、村々は封鎖された。

しかし逃げる百姓たちを先導して、黒いベルシャ馬に跨った謎の侍・・・・・・ひと呼んで「逃げ七郎太」・・・・・・の出現によって、荒くれどもは翻弄された。

その夏、七郎太は大がかりな百姓逃散を仕掛けた。夜に川を下る作戦である。敵はそれを阻むために、戦陣を敷く。最後の決戦場は大隅の三つの川が交わる俣瀬の関だ。前日から各地で戦いを繰り広げ、百姓たちを率いて七郎太は船の待つ河口をめざした。夜明け前の俣瀬の関。いよいよ決戦のときが来た。

七郎太を敵の包囲網から逃すために犠牲になった初老の郷士。大工で旅稼ぎをして国に帰る途中だったのだ。何年も一緒に戦ってきたみなしごの少女・おりん。戦いの後に青年とともに去っていくのを見送る七郎太。敵の総大将の身を切るような孤独の生い立ち・・・・・・。それぞれの悲しさを背負い込んだ群衆が、命の限りに繰り広げる。迫真のスペクタクルドラマ。

大隅半島だから生まれた舞台設定。独自の登場人物。果てしない原野の陽炎の中で、現実と幻想の境目が消える。白い龍に乗っておりんが走る。七郎太が生きる意味を求めてさまよって来た父の故郷。俺は何故、ここにいるのだ?・・・・・・大隅半島という名の壮大な孤独が、彼の心の中で幾重もの山びこを誘う雄叫びを放った。

逃げ水の七郎太 / 読者の声

ページをめくると、いきなり絶対絶命の壮絶な死闘。その緊迫感は、奇想天外のストーリー展開と、多彩な登場人物、それぞれの苦悩の過去と明日への希望の絡み合いにより、最終場面まで一刻も緩まない。

このスケールの大きさ。大隅の自然と人物描写の細やかさ。鹿児島の作家として名を残すことになる作品だ。

元朝日新聞論説委員
小林 泰宏

津波ですべて失った私にとって、この物語は多くの力を与えてくれました。どんな困難にも恐れず立ち向う、そうした時に良き助け手が現れ、良き知恵に支えられ切りぬける。特に最後の舟出の時、朝日に向かって希望を持って前に向かって進む、これからの私達に大きなエールを送っていただいた思いです。

主婦・宮城県石巻市
佐藤 章子

やばい。凄い。マイッタ。読後感をどんな言葉で表せばよいか。 一気に読ませる筆力。唸らせる展開。登場人物達の様々な生い立ち。悩み。苦しみ。痛み。人間の業。生きる意味。この時代小説には、今までに無い怒涛のパワーと慈愛の奔流がある。

詩人
末原 正彦

繊細で巧みな描写に、まるで時代劇を見ているようにビジュアルが次々に目に浮かぶ。七郎太の生きざまこそ、現代人が忘れかけている理想のヒーロー像だ。

文筆家
西 みやび

大隅半島の大自然と高隈山系を舞台に荒野にすがりつく貧農への苛鮫詠求に義憤を燃やして隣国飫肥藩に逃散させる若武者。薩摩藩の史実を元に蘭癖島津重豪の圧政や外城・郷士制度、一向宗への弾圧、示現流の刺殺隊、波見浦の回船問屋の豪商などが絡みサスペンスドラマさながらで目を離せない。

おそらく、映画やTVドラマ化されるのではと思料される。

南日本新聞社 前社長
水溜 榮一

躍動感溢れる一大時代小説。大隅半島とその地の「農」にこだわり続けた作者の視座が強く打ち出された傑作です。500頁近い大作ですが、アッと言う間に、読み終えてしまいました。

弁護士(宗村法律事務所代表)
宗村 森信

雄大な高隈山と笠野原台地に象徴される大隅半島。辺境の地といわれた大隅を舞台に百姓逃散を企てる七郎太の壮絶な闘いは、読書を飽きさせない。目まぐるしい展開と多彩な人間ドラマ。時代小説の枠を超え、人の生きる意味を考えさせられる。

鹿児島テレビ放送常務取締役
堀之内 宏光

かつてなかった大隅半島が舞台の大スペクタクル。巧妙なストーリーと息をのむ展開に驚嘆した。この地に生きる著者の会心の大作だ。

元 読売新聞大阪本社高松総局長
現 大阪青山大学客員教授
渡口 行雄

国産衛星が最初に写した日本の活断層が一本もない大隅半島。その江戸時代に地滑りの如く村民が消える!苛斂誅求のみではこの地は尽きる!智略知謀を尽した七郎太の農民脱走作戦。

東宝映画監督
山下 賢章
◎初版時に寄せられた手紙より

黒沢明ファンの三沢さんならではの超大作。

「七人の侍」や「隠し砦の三悪人」などを連想させるシーンもあり、興味はしんしんでしたが、単に面白いだけではなく、物語の背景の重厚さに圧倒されました。三沢さんから三十年かかって書き上げたと聞いたとき、冗談半分と大笑いしましたが、実際に本を読んでみて、なるほどと思いました。

今まで知られていない薩摩藩の苛酷な搾取と隠れ念仏の百姓たちが逃散する様子など、埋もれていた資料を長期にわたって掘り起こし、ゆかりの場所に自ら足を運んで徹底的に調査したであろうとうかがわせる、大いなる労作ですね。

また歴史的な真実性もですが、別の魅力として、他では存在しない人物たちが登場し、独特の感動的な事件が起きる、さらに大隅の原野では幻想が現実と境目のない出来事として描かれています。これはこの地を舞台にした優位性であり、小説世界として比類ない強みではないでしょうか。

元・朝日新聞記者
斉藤 鑑三

作品の紹介(3)
「太平次」(上・下)


2010年 南風図書館が刊行

南風図書館で展示販売中

薩摩半島南端の指宿に生まれ育ち、幕末の全国長者番付で西の横綱に張り出された大事業家。・・・・・・浜崎太平次。

指宿を拠点に日本最大の船を走らせ、 琉球を介して中国と貿易を行い、日本海の北前船と提携して壮大な交易網を構築していた。薩摩藩の倒幕維新運動を、陰で支えた。

しかし、 幕府が国内外の交易を独占している体制下で、太平次の事業は幕府の禁を破ることとされた。それゆえにその事業は陰に隠れて営まれ、太平次そのものも表に出るのを避けた。いかなる資料も残さなかった。

三沢明郎は 《謎の人物・太平次》 を小説にするため、 10年あまりの歳月をかけて、北は北海道の根室半島、南は沖縄の那覇、そして日本海沿岸の北前船の寄港地をことごとく踏破した。さらに長崎や大阪に長期滞在して、まったく痕跡のない太平次を追い求めた。

その小説はとてつもなく分厚い本になった。

上下合わせると2165ページとなる。

刊行はしたが、それを求める人はまったくいなかった。本は段ボールに入れたまま、倉庫に放置されていた。

2018年、南風図書館がオープンし、ようやく陽の当たる場所に置かれた。

太平次の人生 / 三沢明郎が語る

薩摩半島の南端の指宿に拠点をおいた回船問屋・浜崎太平次。

・・・・・・幕末。太平次は北海道産の長昆布を琉球に運び、そこから中国に輸出していた。貿易で国が成り立っている琉球で、長昆布は輸出品のなかの90パーセントを越えており、まさに長昆布なしに琉球は立ち行かない状態だった。

中国からは主に薬剤が輸入されていた。日本人は昔も今も、薬なしには暮らせない人種である。日本の薬の大供給地はその当時から富山だ。太平次は琉球で確保した薬剤を富山に運んで売りさばいた。

したがって行きも帰りも、太平次の船は大儲けしていたのである。もちろん、太平次は富山だけでなく、日本の流通の大拠点である大阪でも薬種を卸していた。その当時、大阪で作られた全国の金持ちの番付表を見ると、太平次は西の横綱である。

早い話し、太平次は日本最大の貿易商だったのだ。

太平次が長昆布を仕入れるために、その産地の根室半島まで出かけなくてもよかった。例えば富山の人たちが根室に移住し、それを確保して富山に運び、太平次に売り渡す例が多かった。富山だけでなく、日本海の沿岸で船を持って栄えている者たちは、根室に出かけて長昆布を運んで来て、太平次に売った。とりわけ、そういう北前船の大寄港地である新潟には、さまざまな経路で長昆布が集まり、太平次もここで大量に確保できた。

太平次が長昆布を買いつけるということは、そこに琉球を介して中国から輸入した薬剤をはじめとするさまざまな品が卸されることになる。したがって新潟港には中国の輸入品か豊富にそろっており、ここから江戸にもふんだんに供給されていた。

いうまでもなく、太平次は日本海の港や大阪、琉球などを自ら駆け回っていたのではない。彼は数多くの船を持ち、その乗組員を雇い、また指宿や鹿児島城下の事務所、琉球や大阪、新潟などに支店を構えて、たくさんのさまざまな人を雇用していた。

太平次の船は日本最大であった。しかも、琉球に渡る七島灘は大変な荒海であり、それに耐える強靱な船でなくてはならなかった。そして幕府の積載量規制を逃れるため、船底などに荷を隠すための特別な構造にする必要があった。このような独自の船を造るのに、太平次は指宿に大規模な造船所を持っており、そこでも大勢を雇用して、商い業の雇用も含めて、一種の太平次城下町といわれるはどの繁栄を地元にもたらしていた。

ところが、都合の悪いことに、幕府は自分の財政を確立するため、海外貿易を長崎に限定して、すべてを独占していた。長昆布にしても薬剤にしても、幕府以外が輸出したり、輸入したりするのは禁じられており、その禁を破ると厳しく罰せられることが法律として決められていた。奄美群島産の黒糖でさえ、その罰則があてはめられていた。

というこは、太平次は幕府の禁を犯して貿易業を営んでいたわけである。その仕事は「蜜貿易」という名の、犯罪行為とみなされていたのだ。

ここで忘れてならないことがある。蜜貿易という禁を犯していたのは、太平次だけでなく、薩摩にはたくさんの回船問屋や船主がいて、大小さまざまにそれを繰り広げていた。さらにいえば、薩摩藩そのものが財政を潤わすために、幕府を欺いて蜜貿易をおこなっていた。

太平次たちはある意味、薩摩藩のたくらむ蜜貿易の片棒を担がされていたわけで、勝手気ままにそれができたのではない。藩のたくらみに従いながら自分の蜜貿易を行う。いわば二重構造の蜜貿易を行っていたのである。

ただし、そうであるがために、太平次たちは薩摩藩に守られていたともいえる。薩摩藩という隠れみのをかぶり、幕府の監視を免れている面もあった。

新潟港の商人たちの例をみると、薩摩藩とつながる流通で大量の輸入品を取り扱っていることを理由に、幕府は何度も摘発し、主な商人たちを江戸に連行し、厳しくとがめ、死罪にまでした例もある。

しかしここで薩摩を摘発はできず、その状態はなおも改まらなかったのである。

薩摩藩および太平次たちによる日本の経済を圧倒するほどの蜜貿易のせいで、幕府の財政はこの方面からの収人が枯渇して行き、徐々に幕末という事態に傾いていった。

幕末に、薩摩が幕府を圧倒するほどの壮大な軍事力を確保できたのは、蜜貿易による豊富な資金があったことも一因である。

明治維新に至るまでに、太平次たちの果たした役割は大きいのだ。

ところが、太平次はまったく謎の人物である。

太平次に関する資料は何もない。昭和の初め、熊本のある人物が指宿に来て、写真屋に泊まり込み、太平次をテーマに浪花節を各地で聞かせたという。浪花節をつくるために、地元の古老たちの話を聞いて回ったのか、いま、それが小冊子として残っている。

太平次の記録はそれが唯一で、他には何もない。

何故ないのかといえば、蜜貿易を行っている以上、摘発時に何の証拠も残さないように徹底して心がけていたのであろう。

そして蜜貿易という言葉がひとり歩きして、たまには太平次を極悪人のように評する人もいる。・・・・・・私は太平次をこの状態に放置していいのかと疑問を抱く。

大阪で太平次は殺されたという言い伝えがある。そのお寺を訪ねてみた。また、太平次が加賀の銭屋五兵衛の息子・喜太郎と組んで仕事をしていたのではないかと推察し、喜太郎が寄進した石碑のある青森県下北半島の恐山に出かけた。富山から能登半島をレンタカーで走るとき、あまりにも壮大で華麗な山車を引き回す祭りを見た。最果ての地と思っていた半島の至る所に、鹿児島ではありえない豪壮きわまる邸宅を見受けた。半島の先端で日本の中心という標識を見た。江戸時代の日本は、日本海が中心だったのだ。そう実感し、太平次の思いを忍んだ。沖縄の那覇で、薩摩の昆布倉庫があったという場所を捜した。かんかん日照りの中を歩き回り、捜し出せず、疲れてしゃがんでいたら、唄が聞こえた。夕暮れた町中の赤瓦の家から流れ来る。言葉はわからないが、どこか切ないほどに懐かしい唄と三味線の調べ。時代を越えたそれを、太平次も聞いたのではないかと想った。